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MITSUBISHI MOTORS

日本一のデボネア愛 伊藤實さん、基さん父子と三菱プラウディア(2001年型 10年1万km)、その他たくさんの三菱車

※お客様より「ナンバープレートも年月を感じる大切なシンボルなので掲載して欲しい」とのお申し出をいただき、ナンバーを掲載させて頂いております。

7台の三菱車

 細い路地を入っていくと、左手に幼稚園の大きな駐車場があり、右手の敷地が伊藤家の敷地だった。入り口と出口をクルマで間違えて入ってしまったが、それで何も問題ないほど広かった。
 ディグニティ、デボネア、デリカ、プラウディア、GTO、トッポBJ、 i と、三菱のクルマが一気に視界に7台も入ってきた。
 いったい、ここはどういう家なんだ!?
 「あっ、カネコさん、はじめまして」
 キョロキョロしていると、伊藤基(はじめ)さん(39歳)が僕を見付けてくれた。幼稚園の園長補佐だ。笑顔が実に福々しい。子供が寄ってくる顔だ。
 園長は母親の和子さん。父親の實さん(68歳)は理事長。實さんは市議会議員も務めている。

 プラウディアと整備中のi-MiEVに實さんが乗り、和子さんが i に、基さんのマイカーがディグニティだ。GTOは1993年に購入し、基さんや妹さんも一時は運転していた。

 黒いデボネアは、基さんが2000年に購入し、もう3、4年間動いていない。近寄って見てみると、黒いボディのところどころに緑鮮やかなコケが生えている。
「デボネアも、こっちのデリカも車検を切らしちゃっているんです」
 それだけではなかった。母屋の奥には、ナンバーの付いていないデボネアが2台置かれているし、他にもあるという。
「そのガレージの中にもありますよ」
 7台の三菱車に驚かされただけでは、まだ足りなかったのだ。

 基さんが毎日乗っているのは、黒いディグニティ。3年前に14万km走行した中古車を購入した。
「国内で59台だけ登録されただけの数少ないクルマなので、インターネット広告で売りに出されているのを見付けた時には、“これを逃したら一生手に入らない。なんとしてでも手に入れなければ”と毎日チェックしていました」
 最終的には電車で見に行って決めた。14万km走っていたが、銀行で使用されていたので管理が行き届き、コンディションが良かった。価格は180万円だった。

 ディグニティはプラウディアよりも車室が25センチ長い。もちろん、企業や団体などの幹部たちのためのショーファードリブンカーである。持ち主が自分で運転するために造られたクルマではないことはみんなわかっている。それなのに、なぜ基さんはディグニティに乗っているのか。さらに言えば、なぜ、伊藤家のクルマはみんな三菱車で、動かないデボネアまで何台もあるのだろうか?

 話は簡単ではない。基さんがディグニティに乗っていることの背景には、まずデボネア収集というナゾ(?)があり、さらにその背後には家族全員が三菱車に乗っているという事実がある。

半世紀以上、三菱車一途

 お邪魔して、實さんと基さんに話を聞いた。
応接間には、額装された様々な賞状や感謝状などがたくさん飾られていた。
「昭和30年代に、高校の友人が中古のジープを勧めてくれて乗って以来、ずっと三菱に乗っています」
 次に、初めて新車でコルト1000を買った。
「田んぼの中に道ができて、その先に千葉三菱コルト自動車販売の営業所が建って、そこから来たセールスマンから買いました」
 コルト1500、ギャランGTOと乗り継ぎ、デボネアに買い替えたのが昭和51年。基さんが4歳の時だった。
「デボネアが納車された日のことはよく憶えていますよ。田んぼの向こうから走ってきて、ウチに入ってくる姿が印象的でした。大きくて、アメリカ車のような見てくれが強烈でした」
 ということは、伊藤家の三菱車尽くしは、やはり實さんに始まるのか。實さんは、三菱車のどこに惹かれたのだろうか?
「信頼感の高さでしょうか。例えば、他の日本車メーカーでは同じモデルでも複数のエンジンを設定したりしています。でも、三菱はやりません。一台のモデルにふさわしいエンジンは、そんなにあるものじゃありません。開発の資源を集中して、改良を継続していく姿勢が信頼できますよ」

 三菱車の歴史をヒモ解くと、すべてが實さんが指摘されるようとは限らない、中には、一車種に九つものエンジンが設定されていた例もあるのだ。しかし、1950年代からオーナードライバーとしてハンドルを握ってきた人からすれば、信頼感とは何にも増して重みを持つ言葉に違いない。だからこそ、實さんの三菱車に寄せる想いには絶大なものがあるようだ。
 デボネアをデボネアVに替え、GTO、ディアマンテとトッポBJを買い足し、プラウディアに替え、i-MiEVを増車した。それらと並行して、デリカコーチ、デリカバン4WDも所有していたことがあり、主に和子さんの買い物用にミニキャブワイド55やミニカなどを使っていた。
「三代目に当たるデボネア(エグゼクティブⅠ)はツマんないクルマになっちゃったんだよ。次に乗ったディアマンテの方が中も広いし、よく走ったね」
 それでも、三菱のトップモデルへの想いは断ち難く、デボネアの生まれ変わりとも呼ぶべきプラウディアは生産中止 を聞いて購入した。

「息子にソソのかされたようなものですよ。フフフフフフッ」
 あれあれ、實さんの意思ではなく、基さんの方が欲しかったのか。
「ええ。自分の目の触れるところに一台あって欲しかったんですよ。ハイ」
「まんまと息子の作戦に乗せられたようなものですな。ハハハハハハッ。普通は、“止めといた方がいいよ”と止めるもんじゃないですか。ねぇ?」
 とは言いながらも、實さんは、基さんに買わされたようなものだったことを、それほどイヤとは思っていないようだ。

ネブラスカでの天啓

 プラウディアが発売される時に、基さんは“発売する側”の人間だった。大学卒業後、三菱自動車工業に就職し、9年間勤務していたのだ。
「ハイ。三菱のクルマが好きで就職しました」
 好きなクルマを製造するメーカーを受験する学生は少なくないだろうが、実際に就職してしまう人は珍しい。

 大学4年生の時、すでに基さんは筋金入りのデボネアマニアだった。10年9万6000km乗ることになるランサー・エボリューションに乗りつつ、不動車のデボネアを入手していた。
「いずれ初代デボネアに乗りたいので、部品だけでも確保しておきたいと4万円で買っていました」

 4歳の時に見た、家に納車されてきたデボネアの影響がその根底にあることは間違いないのだが、基さんが現在に至るまでの深いデボネア愛を育むことになった理由は、大学1年生の時のアメリカでのホームステイ経験にあった。
 ネブラスカに滞在中、毎日、たくさんのアメリカ車を眼にしていた。内陸部のネブラスカは東西の海岸部とは異なって、輸入車の割合が少ない。彼の地にとっての“国産車”であるアメリカ車の中でも、台頭し始めてきたSUVやミニバンではなく、3ボックス型セダンが多かった。

「デボネアのデザインはアメリカ車の日本版だと思い込んでいましたが、全然違ったんですね。アメ車のデザインって、大雑把なんですよ」
 似ていると思っていたアメリカ車との違いばかりが思い出されるようになった。

「親父のデボネアは、こんなじゃなかった」
 当時のアメリカのビッグ3製の大きく角張った4ドアセダンを見れば見るほど、デボネアの美しさと魅力に気付いていった。
「デボネアの特長は三つあるんです。まず、フロントグリルの造形です。細かい横フィンが、とても繊細です。こんな繊細な造りは、アメリカ車にはできません」

 第二点は、前後フェンダー上の細いモール。
「こんなに細いモールもアメ車には付いていません」
 そして第三点は、リアウインドの造形。
「よく見ると、リアウインドが少し奥に取り付けられていて、そのぶん屋根が少しだけヒサシのように出っ張っているんですよ。こんなに精妙なデザインは日本人の細やかな造形感覚によるものです。アメ車にはできません。それだけでなく、デボネアのディテールは細かく、繊細に造り込まれています。」
 デボネアはハンス・ブレッツナーという元ビッグ3のデザイナーが造形を担当した。だから、アメリカ車の小型版に見えてしまうのは当然のことだ。
「ネブラスカでは、アメリカ車には力強さや大胆さといったアメリカ車ならではの魅力があることがよくわかりました。一方で、デボネアには、アメ車をそのまま縮小したのではない、日本の自動車メーカーならではのキメの細かさ、行き届いた丁寧な造りがなされていることもよくわかりました」

 日本に戻って、ネブラスカで見直すことになったデボネアに対する愛着が一気に加速した。正確には、“デボネアとデボネアに関係するクルマたち”を可能な限り手元に置いておくことが基さんのカーライフにて第一優先されるようになったのだ。
 初めて“動く”デボネアを購入したのが23歳の時だった。ベンチシート&コラムシフトの1970年型だった。
「いわゆるベンコラですね」
 翌年、自動車雑誌の記事を介して富山県のデボネアオーナーと知り合い、その次の年に「三菱デボネアオーナーズクラブ」を結成。三菱自動車の岡崎工場で結成式を行った。

全盛期にはメンバー70名を数え、年に一度のツーリングなどの活動を5〜6年続けた。現在は、約30名によってメーリングリスト中心に活動中だ。
 今まで登録して乗ったデボネアは4台。それらを含めて所有したことのある初代デボネアは20台を越えている。日本で一番デボネアを持っていた人になるのではないか?
「たぶん、そうなんじゃないですかね」
 激しい雨が止んだので、シャッターが下ろされていたもうひとつのガレージを開けてもらった。

 いろいろなものに埋まりながら収まっていたのは、デボネアのオープンカーだった。
「1988年に瀬戸大橋開通を記念して、三菱自動車が造った3台のうちの1台です。岡山県の中古車店がネットオークションに出品していたのを見付けまして、“こんなところに出していいのか!”と怒りに震えながら落札しました。35万円で購入できました」
 パレード用だから幌がない点と、4ドアを改造したための補強として左右のボディをつなげる太いパイプが目立っている。

 自宅内の他に、デボネア保管用に駐車場を借りていて、そこには5台もある。カーデザイナーの由良拓也氏が1987年にデザインした改造ストレッチリムジンのデボネアまである。
 黒いデボネアの脇には、デボネアのリアアクスルが2基、床下にはリーフスプリングが1セットゴロンと転がっているし、シルバーの2台の横には、バンパーが立て掛けられている。
 もう、初代デボネアだったら何でも集めてしまうのが基さんなのである。
「すべてナンバーを取って走らせたい」
 家業を手伝うようになってから、自分の時間が取れなくなってしまった。市の商工会議所青年部会長を務めているので、多忙を極めているのだ。僕がお邪魔した日も、姉妹都市である福島県相馬市の商工会議所青年部々員を招いての花火大会のために奔走していた。
「三菱のクルマに特別な想いを抱いているのは、ずっと父の背中を見てきたからでしょうね。幼稚園経営者として、政治家としての決断力や行動力を尊敬しています」

 では、デボネアを集めている理由はどこにあるのだろうか。
「それは使命感ですね」
 他の三菱車については、デザインに惹かれている。
「やっぱり、三菱らしくカクカクしたところが好きなんですよ。ハハハハハハッ」
 つい先日、以前から欲しかったパジェロ ミニDUKE(デューク)を手に入れた。これで“欲しい三菱車リスト”の一台分がクリアできた。
「でも、全体としてはリストはどんどん伸びているんですよ」
 初代シグマ、50台限定だったピスタチオ、フォルテなどがリスト上位にある。それらが来ても、ここにはまだ若干の余裕がありそうだ。

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