昔は、農協が自動車販売の重要なルートとなっている地域が少なくなかった。
農協の組合員、つまり農家に新車を販売し、納車から保険手続き、整備や修理まで、農家のクルマに関するすべての面倒を農協が見ていた。販売するクルマやサービスの基準はディーラーと変わらず、言ってみればサブディーラー的な存在だ。農家は忙しく、休日と言えどもディーラー巡りしているヒマはない。今と違ってインターネットもないから、情報収集もママならない。
農協が販売していたのはクルマだけでなく、電気製品や家具などから始まって、化粧品や健康器具まで何でも揃っていた。農家と農協の蜜月時代だった。
その場合に、農協で売っているクルマの多くが三菱自動車のクルマだった。香川県東かがわ市の丸山茂さん(62歳)は、34年前に地域の農協からギャランΣを購入した。そのΣに乗り続け、現在の走行距離は15万9000キロあまり。
途中で次男の郁夫さん(34歳)が引き継ぎ、メインテナンスを施して、ご覧の通り、ピカピカ完璧のコンディションで、遠くの三菱車ファンを訪ねたりしている。
郁夫さんにΣを譲ってからの茂さんは、もっぱら、ミニキャブバンとトラックばかり。
「生き物を商売にしているので、家を空けられないから、Σには乗らなくなっちゃったんですよ。“箱バン”の方が便利ですからね」
茂さんは、米や野菜の他、温室でカーネーションを栽培している。出荷するカーネーションを直射日光や雨風から守りながら運ぶのには、ミニキャブバンのような軽ミニバンがピッタリなのだ。
茂さんは地元の高校を卒業後、医薬品メーカーに就職し、大阪でセールスマンをしていた。地元に帰って、農協に就職。その後、工作好きが転じて大工になった。Σは、農協時代に買った。Σの前にはコルトギャランに乗っていて、どちらも農協で買った。1976年1月に郁夫さんが生まれ、6月にΣを購入。
「ギャランGTOやΣのテレビCMを、よく憶えていますよ。あれ見たら、たいがいの人は“カッコええな”って、思ってましたもん。なあ?」
奥様の信子さんをそう促すのは、生後間もない郁夫さんをコルトギャランで隣県の病院に連れて行くことが多かったからだ。
その道中にある三菱自動車のショールームの前を通るたびに、“カッコええな”と夫婦でΣに見蕩れていた。見積もりを取ってみると、当時はまだ贅沢品だったエアコンの20万円を筆頭に、パワーステアリング、ラジアルタイヤ、フォグランプ、マッドガード、サイドモールなどのオプショナル装備を加えていくと、200万円を超えた。ふたり目の子供が生まれたばかりの若い夫婦には、とても支払える金額ではない。
救世主が現れた。
農協だ。
丸山家は、代々この地で農業を営んでいて、出荷高だって小さくはない。そこの息子が職員なのだから、農協にとっては何の問題もない。だから、ローンの審査だって即刻パス。家が組合員であり、自身は職員なのだから、信用度200パーセント。晴れて、スーパーシルバーのΣは、農協から茂さんのもとに納車されたのである。
「大工は、墨付けができるようになったら一人前。建てた家には、全責任を負いますよ」
墨付けというのは、墨壷に入った糸とその先のピンを木材の端に打ち、引っ張ってきたところでパチンッと、カットするラインを記す作業だ。見ていて惚れ惚れしてくる大工の技のひとつだ。茂さんは、Σで毎日あちこちの建築現場に通った。休日には、家族で高知や徳島まで足を伸ばして遊びに行った。
「100軒ですか。建てた家は忘れられないから、時々、遠回りしてでも前を通って、様子を見ています」
茂さんは、モノを作ることが好きな人だ。その情熱を、今はカーネーション作りに注いでいる。
「憶えているのは、Σで農業試験場にカーネーションの苗を買いに行ったことぐらいだよ。その前は、憶えていないな」
郁夫さんのΣの記憶は、茂さんが大工を辞め、家業を継いで新たにカーネーション栽培を始めてからのものだ。
「一回も故障しなくて、それは頼りになりました。この子を病院に連れて行ったり、保育所に送り迎えしたり、この子の子育てはみんなΣでした」
信子さんも運転するために、Σはオートマチックトランスミッション付きが選ばれた。
「ノークラのGLXの一号車でした」
現在、郁夫さんの“足グルマ”はeKスポーツ、兄の克己さんはシャリオグランディスに新車から10年以上乗っている。家族で5台もの三菱のクルマに乗っている。
「乗ってはいませんけど、Σバンもありますよ。ハハハッ」
丸山家が5台も三菱のクルマを乗っているのは、農協で三菱のクルマを売っていたからだけではない。今では、全メーカーのクルマを扱うようになったし、農家も昔のように農協から何でも買わなくなった。
「シグマがトラブルなくずっと走り続けてくれたから、三菱のクルマに対する信頼感とか、愛着が生まれていったんですよ。ウチでは、三菱のクルマすべてが特別な存在です」
茂さんは、もうほとんどΣには乗らなくなったが、Σに憧れ、頑張って働いてローンを払い続けた若き日々のことを、昨日のことのようによく憶えている。カーネーション作りに転身してから乗らなくなったΣも手放さず、念入りにカバーを掛けて大切に車庫に仕舞っておいた。いずれ、免許を取る子供たちが乗るからだ。
翌朝、郁夫さんの運転でΣでロングドライブに出た。目抜き通りの赤信号などで停まると、Σに気付いた人は、みんなシゲシゲと眺めていく。一世を風靡したヒット作を思い出している中高年が多い。
「昨日、あんなに父がクルマのことを話したのを聞いたのは初めてでした」
助手席から眺めると、ハンドルのリムの細さが時代を表わしている。アナログ式のメーターがズラリと並ぶのも昭和っぽい。でも、メーターが細長い長方形のケースにまとめられて奥の方に収まっているのは、この時代の日本車としてはモダンな印象を残している。
「昔は、掛かっているのがわからないくらいに静かだったんですけど、アストロンエンジンのサイレントシャフトを回しているチェーンのコマとコマの隙間が広がってしまって、うるさいんです。“ディーゼルですか?”って間違われたことがあるくらいですから」
エンジンルームから、回転数に合わせてカラカラとノイズが聞こえてくる。高速道路に乗るとノイズが大きくなるのは、エンジンのせいだけではない。ATが3速だから、時速100キロで3600回転も回っている。
「父は農協の関係やカタチに憧れてこのクルマを買いましたけれど、僕は三菱のクルマ造りに共感しています。だから、このクルマを受け継いでいますし、eKスポーツにも乗っています」
郁夫さんは、三菱自動車の新しい技術に挑戦していくところが好きだと言う。
「もう“サイレント”じゃないですけど、例えば、このクルマのエンジン。4気筒で、静けさと滑らかさを実現しようとしました。他にも、ミラージュの8段スーパーシフトやシャリオの3列7人乗り。最近では、iのミッドシップレイアウトや電気自動車のi-MiEV」
運転しながらスラスラと三菱自動車が取り組んできた新技術を挙げていった。
「僕も天の邪鬼ですけど、三菱自動車も独自の世界観を持っていますよね。万人受けするものや流行りのものは、好きじゃありません。兄は新しモノ好きですけど、僕はアナログと昭和好き。CDだけじゃなくて、LPも聞いていますよ」
Σのカーステレオは健在で、浜村淳の番組が流れていた。
Σの整備は、地元の「カーファクトリー水口」で行っている。マニア相手の工場ではないが、水口正浩社長自らがΣのキャブレターの調整なども丁寧にやってくれる。
「今のところ、パーツの供給で困ったことはありません。Y管理(“欠品中”という三菱ファンと関係者用語)のものでも、注文数がまとまると新たに作ってくれますから」
最近、ウインカーライトが点滅せず、点灯しっ放しになる症状が起きた。郁夫さんはウインカーレバーの接触不良だと考え、ステアリングコラムをアッセンブリーで注文した。
「いつも工場任せではいけないな、と近所の三菱のディーラーに自分でパーツリストを持ち込んで注文しました」
そのディーラーには茂さんのことを知っているメカニックや郁夫さんの高校の同級生もいて、スムーズに発注できた。でも、故障原因はそれではなく、ウインカーライトの電球切れだった。勇み足で、ステアリングコラム一式が無駄になったわけだが、郁夫さんは悔いていない。
「悔しいとは全然思いませんでした。勉強させてもらったわけですから、うれしかったくらいです」
なんて優しく、謙虚なのだろう。淡路島から神戸を経由して愛知県岡崎市の三菱自動車技術センターまで走り、しばらく過ごした後、郁夫さんは再び、来たルートを今度はひとりで運転して家族のもとへ帰っていった。