2019.08.26
福岡県
半世紀、3世代を乗せて
永松 徹さんと
三菱デボネア・エグゼクティブ(1970年型)
049
0383,000
※お客様より了承を頂戴し、ナンバープレートを隠さず掲載させて頂いております。
岡崎工場まで取りに行った
6月に公開した、三菱ギャランGTOに乗り続けている中村謙介さんの記事の中に永松 徹さんにも登場いただいた。
ギャランGTOの整備を長いこと担当してきた永松自動車工業の会長さんだ。86歳になる永松さんが初代の三菱デボネアに49年38万km乗り続けられていることへの反響がとても大きかった。
友人知人からは訊ねられ、見知らぬ人からはメールやメッセージなどをもらった。次は永松さんの10年10万kmストーリーを読んでみたいという要望だった。さっそく連絡を取って、再び、福岡へ向かった。
工場が休みの日曜日に、徹さん、息子で社長の明則さん、孫の健児さんの3世代で出迎えてくれた。
商談ルームには、つい先週に三菱自動車工業から授与されたばかりの“感謝状ゴールド賞”の盾が飾られていた。昨年度のものも並んでいる。九州地区における「三菱自動車サテライトショップ博多」として販売とサービスで優秀な成績を挙げたことを讃えられたのだ。壁にも、それ以前のものがいくつも掲げられている。
改めてお話を伺うと、永松自動車工業は1959年3月に徹さんがこの地で創業した。その前は、叔父が経営していたオートバイとクルマのディーラーに勤務していた。
「三菱のシルバーピジョンというスクーターがたくさん売れて、その整備や修理を担当して技術を磨いていきました」
やがて、オート3輪から4輪へと扱い品目の主軸が移っていった。
「お客さんの仕事がどんどん発展していって、スクーターからオート3輪、そして4輪へと変わっていきました」
高度経済成長によって、人々の移動手段が移り変わっていった。昭和と平成の歴史とともに永松自動車工業も発展していった。
初代デボネアを購入したのは1970年。徹さんの従兄弟が当時、三菱自動車工業岡崎工場に勤務していて、「デボネアのエンジンがサターンと呼ばれる新型に換わる」と聞いていたことがキッカケだった。
「210万円ととても高価でしたが、どうしても欲しくなって。当時の平均月給額の3年分もしたんです」
シャンパンゴールドのボディカラーも徹さんの好みで、さらにレザートップもオプションで注文した。
「レザートップがいいでしょう? 当時はこれが流行っていたんだけど、後から貼り付けたものは大体すぐに剥がれたり、シワが寄ってきたりしたんです。でも、これはメーカーで貼ってもらったから、今でもピシッとしているでしょう?」
こんなに鮮やかな色のデボネアは他で見たことがない。レザートップも彩りを添えている。ボディカラーとレザートップについて語る徹さんは、とてもうれしそうだ。
運ばれてくるのが待ち切れなかった徹さんは、注文した自分のデボネアを岡崎まで取りに行った。想いが高まると、すぐに行動に移す人なのだ。
「完成予定日を何度も確認して、その日に受け取れるようトラックで向かいました」
中国道や山陽道などの高速道路が全線開通する前だったので、一般道をトラックで岡崎まで向かった。夜は、途中の駅にトラックを駐め、駅員に断って待合室のベンチで仮眠を取らさせてもらった。
「そこの駅員さんが良い人で、夜食までご馳走になっちゃってね」
無事に福岡までデボネアを運び帰り、まだ制度がなかった頃なので、登録まで3か月待って「7777」のナンバーを取得した。それ以来、デボネアは社用車として顧客を乗せたり、商談に出掛けたり、また休日には家族のクルマとして半世紀近く走り続けてきた。
日本GPで優勝したコルトF2000
コンディションがとても良いのは、ずっと工場の中に駐められてきたからだ。シャンパンゴールドの塗装もレザートップも艶々している。
フードを開け、徹さんが手でスロットルを開閉してみるとスムーズに回転が上下する。
「このエンジンがいいですね。静かで、力がある」
昔のエンジンだから各種の調整も必要になってくる。
「タペット調整を年に一回、“コンマ125”に合わせておけば大丈夫」
49年間乗り続けながら手入れも自分で行ってきたので、徹さんはデボネアの隅々まで把握している。
「始めの頃は雲仙の山道を走ると回転がバラ付いて加速が悪くなっていましたが、電磁ポンプを付け加えて解決できました」
また、夏になるとオーバーヒート気味になっていたので、ラジエーターをオーバーホールする時に内部のコアを増して解決したりした。
「祖父は、このクルマにそうした工夫をたくさん施しているんです」
孫の健児さんは徹さんに付き添って各地のクラシックカーイベントに参加している。
「両親ともに仕事で忙しく、僕はもっぱら“お祖父ちゃん子”として可愛がってもらいました」
家業を継いだ健児さんの兄、そして従兄弟たちなども乗せ、大勢でデボネアであちこちドライブ旅行に連れていってもらった。
「九州中を走りました」
とても良い思い出だと健児さんと父の明則さんは懐かしむ。
「もっと昔は、弟のレースを親戚一同でデボネアに乗って鈴鹿や富士まで応援に行ってました」
弟とは、レーシングドライバーの永松邦臣さんのことで、1971年の日本グランプリにコルトF2000に乗って優勝したことが有名だ。スリーダイヤモンドが描かれたコルトF2000を駆ってコーナーに切り込んでいくモノクロ写真も、額装されてオフィスの壁に掛けられている。
現在、健児さんは自分のスケートボードショップ「GRAVITY」を工場2階で経営している。単にボードや服などを売るだけでなく、週末には工場を片付けてスペースを作り、みんなでスケートボードに乗れる“場”を提供したり、小学生向けにスケートボード教室を運営したりしている。
「ここがクルマのディーラーだということを知ったスケートボードの仲間が、先日、僕からデリカD:5を1台買ってくれました」
健児さんのスケートボードショップと家業の自動車ディーラーが今後うまくコラボして発展していったら面白いと思う。可能性を感じる。
ラムダも引き取った
徹さんが昨年に運転免許証を返納したことは明則さんから聞いていた。
「私たちが説得しましたが、本人には相当に強い抵抗感があったようです」
それはそうだろう。人生の大半がクルマとともにあった人なのだから、簡単に気持ちの整理を付けることは難しいはずだ。徹さんと二人きりになった時に、運転免許返納について訊ねてみた。
「ええ。もう歳ですからね」
それまで、あれほど饒舌にデボネアや仕事のことを僕に話してくれていたとは思えないほど急に言葉少な気になり、穏やかな表情に変わった。少しの間が空き、気を取り直したように徹さんは再び元気に喋り始めた。
「古いクルマは買おうと思っても買えないのだから大事にしないと。造ろうとしても造れませんからね」
大切にしているのはデボネアだけでない。乗られなくなったクルマがあると聞くと、引き取ってきて娘に呆れられてしまっている。
「昨年も、僕と一緒にラムダを引き取ってきて倉庫にしまってあります」
健児さんは黒いもう一台のデボネアに乗っていたくらいだから古いクルマが好きで、徹さんと意気投合している。半世紀近く3世代を乗せてきたデボネアは、また次の半世紀に向けて引き継がれていく。