2019.06.20
福岡県

父と息子のハードトップ
中村謙介さんと
三菱ギャランGTO GS-R(1975年型)
043
089,000
※お客様より了承を頂戴し、ナンバープレートを隠さず掲載させて頂いております。
門を移動させてまで

九州の福岡で1975年型の三菱ギャランGTOに43年8万9000km乗り続けている中村謙介さん(51歳)に街を案内してもらった。
中村さんのお父さんが新車で購入し、中村さんが引き継いだものだ。お父さんは4年前に逝去されたが、ギャランGTOには思い出がたくさん詰まっている。
昭和モダンの素敵なご自宅もお父さんが建築家と一緒に建てられたものだ。ガレージに駐められているギャランGTOのカバーを外すと、白いボディが現れた。
ギャランGTOを眼にするのは久しぶりだ。小学生の頃に従兄弟が乗っていて、ダックテールに見惚れていたのでとても懐かしい。
「こんな感じで、親父はずっと見送ってくれていたんですよ」
中村さんが運転免許証を取得し、ギャランGTOを運転するようになると、お父さんは必ず門の横に立って、角を曲がって見えなくなるまで見届けていた。ルームミラー越しに見えるお父さんの姿をよく憶えている。

実はギャランGTOには、下取りに出されてしまう危機があった。中村さんが中学2年生の時、お父さんは別のクルマを買った。パワーステアリングやエアコン、オートマチックトランスミッションなどが装備された、安楽な最新型車を契約したのだ。2台を駐めておくスペースはなく、その最新型車が納車されたら自動的に下取りに出されてしまう。
「置いておけないの?」
中村さんは、それが嫌だった。かと言って、中学生にはどうすることもできない。
「父はもともと言葉が少なく、家族とのコミュニケーションも希薄でした。だから、イエスともノーとも答えませんでした。しかし、僕の望みはかなえられたのです」
なんと、門の位置を前方に移動する工事を行ってスペースを確保して、ギャランGTOは下取りに出されずに済んだのだった。お父さんは何も言わなかったけれども、中村さんのひとことが思い留まらせた。
シブいっすね!
助手席に乗せてもらい、ご自宅を後にした。車内は黒を主体としつつ、ダッシュボードの一部には木目柄のプリントが貼られている。丸いメーターユニットがズラリと並ぶ様子が昭和のクルマらしい。
走り始めて驚かされるのは、43年前のクルマとは思えないコンディションの良さだった。エンジンは一定の回転数を保ってアイドリングを続け、スロットルワークに合わせて滑らかに加速している。5速マニュアルのトランスミッションを含めた駆動系統などもスムーズだ。一般的に年月を経たクルマは走行中にさまざまな小さな異音が各部から発生するもので、それは半ば致し方ないのだが、このクルマには当てはまらない。
「ええ。どこにも問題ないんです。エンジン、キャブレター、トランスミッション、点火系統など一度もトラブルを起こしたことがありません」
もちろん、定期点検や車検などの際には点検や整備を欠かしていないのだが、いわゆる故障が発生して直したことがないというのは驚異的なことだと思う。
片側一車線の道路をゆっくり通り過ぎようとしたら、対向車線のミニバンを運転していた見知らぬ若い男性から声を掛けられた。
「シブいっすね!」
このように声を掛けられることは良くあるそうだ。ギャランGTOじたいが希少な存在となっていることと同時に、ハードトップという現代では珍しくなったボディ形式を持っていることも人々の眼を惹く理由となっているのではないだろうか?
ハードトップとは、布製の屋根を持つ“ソフトトップ”に対応するボディ形式のことだ。屋根を全部下ろすことのできるソフトトップにボディの中間で屋根を支えるBピラーが存在しないのと同じように、ハードトップにもBピラーがない。
「父はハードトップが好きで、このクルマの前もハードトップに乗っていました」
ハードトップはいいものだ。駐車場に入り、僕も久しぶりに体験させてもらった。前後の窓を下ろして後席に乗ると、Bピラーがないから視界が広がる。座る位置と角度によっては、前席よりも開放感がある。
「エンブレムの赤い部分が時間が経つと剥げ落ちてしまうんですよ」
トランクから取り出した箱の中には、GS-Rやgalantなどのエンブレムがたくさん入っていた。そのうち入手が困難になるだろうと考え、20年くらい前から九州三菱に注文して取り寄せていた。他にも、いろいろなパーツがある。
「幸いなことに壊れることがないので、まだパーツの入手で困ったことがありません」
余裕の表情だ。福岡の中心部に向けて、ギャランGTOを進めていった。
スーツ姿で下に潜って
「ここで、右折待ちをしていた時に止まったんですよ」
壊れたことがないとはいっても、25年ほど前に路上で急にエンジンが止まり、再始動もできなかったことがあった。右斜め前に、偶然にも九州三菱自動車販売のショールームがある。ギャランGTOを購入した、ゆかりの場所だ。展示会にも連れて来られている。

「右折待ちをしている時に、ショールームのガラス越しに営業の方が何人か“おっ、ギャランGTOだ!”と気付かれていました」
しかし、信号が変わっても走り出さないことが伝わったらしく、スーツ姿の営業マンが何人も飛び出してきた。
「みんなでショールームの敷地の中まで押してくれ、そのままボンネットを開けて、直してくれたのです」
営業マンたちは、当たり前のように好意で直してくれた。
「5人がショールームから出て来て下さって、そのうちの2人はスーツ姿のままクルマの下に潜って、トラブルの原因を探ってくれました」
あちこちチェックし、10分ぐらいでエンジンは再始動し、営業マンたちは“では、お気を付けて”とサッとオフィスに戻ってしまい、中村さんがお礼を言う間もなかった。
「うれしかったですね。エンジンが再始動したことよりも、人の優しさに触れられたことに感激しました」
次に向かったのは、永松自動車工業という工場だ。
アッパーマウントをはじめ、入手困難なパーツを全国から見つけ出してもらい、整備を行ってもらった。
「こちらの工場にもお世話になりました」
広い工場の奥には、三菱デボネアが2台停められている。1960年代の三菱500や初代ミニカなどもある。どれも、会長の永松徹さん(86歳)のものだ。徹さんは、1971年の日本グランプリでコルトF2000で優勝した永松邦臣さんのお兄さんだ。1970年型のデボネアは新車から38万kmも走っていて、驚かされた。
「新しいクルマは買えるけれど、歴史は売ってませんね」
非常に深みのある、徹さんの言葉だ。
コンディションの良いギャランGTOで福岡を走ってもらったのは貴重な経験だった。
「毎日の通学の他、休みの日には父にあちこち連れていってもらった思い出が一杯です。初めて運転した時には、それだけで大人の仲間入りをした気持ちでした」
2世代にわたって愛されているハードトップは福岡の街に良く似合っていた。
